2002年の12月に「宇宙の理」に書いた原稿が見つかりました。見逃していたようです。
来年から始めようとしているビデオレターの構成を昔書いたものなど引っ張り出して作成しています。
「日本の使命」の序章のつもりで書いたみたいです。
ご紹介します。
こだわりからの離陸 (118)2002年12月号
小金井弘之
【日本の使命・序章】
ちょっと長い前置きを朝鮮問題について触れる前に書かせていただきます。
徳間書店の書籍「アミ 小さな宇宙人」での会話に「偶然? それどういう意味? われわれの言葉にはそれに相当することばがない」という一節があります。
これは世の中で起きる出来事にはすべて理由があることを当たり前としているユートピア社会では、「偶然」そのものが存在しないので、当然そういう概念も言葉も存在してないということなのです。実はこの中に普遍的重大ヒントが隠されています。
自由とは何か
たとえば「自由とは何か」という問題を考えるときも同じなのです。
世の中はすべて、「ある限定されたもの」を指し示すとき、「そうでないもの」の存在が必要となります。ある限定されたものだけで世の中があふれている場合、ある限定されたものの存在自体を指し示す必要がなくなるのです。そこにある存在がすべてであり無限なのであり、そこにあるものは限定されたものもないのではないこととなり、そういう概念という制限自体がなくなってしまうからです。
言葉は物事を限定することでその役割を果たしており、概念は言葉によってより詳しく形づけられたものです。本来、私たちが観ているもののすべては形付けられたものであり、反映であり幻想とも言えるのです。
実在は〝唯一の私〟である大神様であり、それは愛そのものと言えるのです。愛のみが実在であり、他派幻想です。
ですがそれですと〝私〟という認識自体がないのです。それがすべてだからです。それがすべてという状態はどういう状態かを確認するために実在を分割したうえで、その周りに「すべて」以外の存在である〝幻想(反映)〟を作り、映し出しているとも言えるのです。
ちょっと理屈っぽくなりましたが、「自由」という言葉の存在にも、そこにすでに「不自由」があるという前提があります。
もしもこの世に不自由がなかったら、世界が真の自由であふれていたら、自由それ自体を知ることができないのです。相対するものがないという状態にあるとき、自由という言葉も概念も必要なくなるのです。
しかしそこに不自由があったから、不自由でない状態を自由と呼ぶことにしたのです。宇宙的には、はじめに自由があって次に不自由があるのですが、私たちの世界は不自由という世界からスタートしたのです。
なぜならば、まだ人類の誰も本当の自由というものを体験していないからです。私たちは不自由の経験から自由という概念をつくりだして、自由という言葉を日常的に使っているのです。私たちの世界では自由という未知の存在の生みの親は不自由なのです。
私たちの無意識が「自由とは何か」ということを考えはじめたこと自体が、不自由を経験しようとする創造の世界に足を踏み込んだと言えるのです。そして実際、私たちは不自由を創り出し、不自由から経験を始めることで、真の自由の世界を計り知ろうとし、それを創り出そうとしているところなのです。
愛と愛国心
以前(355号)、「私は愛国心を否定しているわけではない」と書きましたが、しかしそれはどうも正直ではない、という気持ちがあります。実際、それは自分の本音ではないからです。
愛を最も端的に言えば、大きく二つの要素で言い表せると思います。ひとつは成長を促し、サポートする意識で、もうひとつは自分と他人を分離しない「自他一体の心」を生み出しているものだと私は思っています。
その観点から考えると、無差別であり無限である正しき愛をもってして、愛国心を的確に説明できないのです。つまり〝他の国〟の存在を意識したうえでなおも特定の〝自国〟を愛するという愛国心という心の状態を、どうにも明確に正しい愛の下で説明することができないのです。
愛という唯一絶対の実在、「愛がすべて」ということからは(「偶然」や「自由」と同じような比較はできないですが)、愛という心の状態がもしも普通の日常的なものとなっていたのなら、この世に愛だけが実在していたのなら、とりたてて愛という言葉自体必要としないのです。私と私を取り巻く命を頒け隔てなく愛する心こそが唯一絶対の愛であるからです。
愛という言葉が存在していること自体、愛でない心の状態があるということの裏返しなのです。
同じように「愛する国」があるのなら「愛していない国」も存在していることになります。
ちょっと思考が深くなりましたので、ここで母性愛と比較してみます。
母性愛と比較
母性愛は絶対意識の愛(無制限の意識)と、母固有の本能(特定の意識)との合体ですが、愛国心とは、愛と何の合体でしょうか。
母性愛という「無意識」の、神が直接インプットした本能と愛との合体は、愛本来の意味をそのまま生かすことができる(母性を愛がサポートする)ように創られているのですが、愛国心は〝一定の国〟〝限定された国〟を愛するということで、いわば人間の「意識下」のエゴと防衛本能と愛との合体という一面もあり、本来の愛を歪め兼ねないのです。そこにはどうしても反目が生じます。愛はエゴをサポートできないからです。
母性愛や父性愛などの愛も人間愛も、その本籍は愛のなかにあって愛が無意識の本能と交わることで現われる愛の多面性を示したものなのですが、意識下で作られた愛国心はそうではないのです。
「愛する国」「愛国心」をことさら強調するとき、それは「自他一体ではなく国という分離が在るということの裏返しともなりかねない」という落とし穴に気づかなければならないでしょう。
「〝他の国〟の存在を意識したうえでなおも特定の〝自国〟を愛するという愛国心という心の状態を、どうにも明確に正しい愛をもって説明することができない」と前述しましたが、自分が生かされている大地の存在を、他の国を意識することなく愛したとき、それこそが純粋の愛と呼べるのではないでしょうか。
しかしそこに国という分離意識が入ったとき、自分の国を愛するのと同じように世界の国々を愛し、そこに住むすべての人々を愛するという意識に変わらないとならないと思うのです。
即ちそのときにはすでに、愛国心が愛星心=地球愛(他の星を意識せずに純粋に自星を愛する)に変化しているのです。愛は、他を意識するに至ったとき、もっと大きな愛で包めなければ、それは愛とは呼べないのです。
私たちが日本しか知らないときは、愛国心は立派な愛と言えても、他の国と交わり出したら意識は地球愛に変換され(現在ではこれ以下の愛はエゴ)、やがてユートピア到来のときは他のユートピアの人々と触れ合うのですから、星々を含めた宇宙愛へとさらに愛は成長することとなるでしょう。
愛国心であれ、ナショナリズムであれ、パトリオティズムであれ、「~より~をより愛している」という〝上下の分離〟にはすべて、そこにエゴがあるということを認識していた方が良いと思います。
もちろん、地球上どこを探してもそんな人間はまだいないかも知れませんが、私が言いたいことは「愛国心を盲信し、そこで終止符を打ってすべてを肯定してしまっては、必ず間違いが起きる」ということです。
愛国心を聖域とせずに、愛国心の領域は、より大きな愛への成長へのひとつの段階としてとらえ、そういう謙虚な気持ちをもって自分の心を成長させていきたいと思います。
韓国や北朝鮮には民族意識がとても強いです(北朝鮮は情報が少なくて断定できないが多分そうだろう)。そしてそれこそが愛国心だと間違った考えを植え付けられています。
韓国人は何でも人の所為にしてしまいます。それは反日を見れば分かります(中国は愛国無罪)。
しかし小さな宇宙人のアミが言ったように “ 偶然 ” は被害も含めて存在せず、全部理由があり、そしてその理由の多くは加害者よりも被害者側に有る場合が多いのです。
韓国に住む、金完燮氏は著書「親日派のための弁明」(草思社)でこう言います。
「韓国の子供たちは毎日国旗を見ながら胸に手をあてて、『祖国と民族の限りない栄光のため、身も心も捧げて忠誠を尽くすことを固く誓います』と、ぞっとするような全体主義の誓約をしなければならない。このような全体主義的行為は、自分が属している集団(国家、地域、組織)の利益のためなら、他の集団の利益は犠牲にしてもやむをえないという考えを植えつけることであり、危機が迫ったときにはファシズムの狂気を吹きこむことができるという意味で、実に危険なものである。」
「祖国とか民族というスローガンは、支配者がみずからの利益に奉仕させるために人々を欺く嘘であることが多い」と言います。
国をまとめるという意味では、韓国の「反日思想」も大いに役立っているのです。