さて今日で2017年は終わりです。
1年間、お世話様でした。
今日は私が30年間連載している「宇宙の理」という雑誌の2017年10月号の「目標について」をご紹介します。
目標を持って生きるのは現代では常識ですが、目標は制限にもなるということを書いています。
目標を持たないで生きることについて書いていますが、これは未来の生き方とも言えます。
魂と繋がって生きる人の生き方です。
目標を持たずに生きることは アイデンティティ を解き放つ必要があり、少しずつでも心を洗って移行していきたいものです。
5000字ありますので、ちょっと長いですが、新しい生き方としてご参考にしていただければ嬉しいです。
では、良いお年をお迎えください。
昼下がりのコーヒーブレイク 小金井弘之
目標について
一般的な考え方として、「人は目標を立てて、目標に向かって進むと現実を叶えやすい」という考え方が普通です。本当はどうなのでしょうか?
「目標について」語る前に、ここ数か月話題にしている流れの中で関連したことに触れてみます。「目標」の話にも関連してきます。
先に結論を言ってしまいますが、私たちが「今を生きる」ためには、「本当の自分」と繋がって生きなければなりません。本当の自分をイメージするときは「魂」でも「大いなる存在」でも良いと思いますが、換言すれば、今を生きることは「在るが侭に生きる」ことであり、それは「本当の自分と繋がる」と同義であり「本当の自分を生きる」ことです。
ここではそれを「魂と繋がる」と表現します。
修行
スピリチャルな世界では昔からよく「自分探しの旅」などと言われますが、探しているのは本当の自分です。しかし探しても意識上では簡単には見つかりません。たくさん涙を流し、たくさん後悔をし、たくさん悲しむような試練が必要です。また、見つかったとしても本当の自分と確りと繋がれるかは別のことです。
なぜ試練が必要かというと、本当の自分と繋がるには、ゆるぎない信仰心が必要で、それには苦難を乗り越える(超越する)経験が必要だからです。偽りの自分を放棄して全てを宇宙に任せられるまでになるには、修行が必要なのです。この信仰心なくして、エゴを放棄して宇宙からの想いを汲み、無我の境地で在るが侭に生きることはできないでしょう。
人生のどん底の中で、自分の力だけではどうしようも出来ないようなことが、なぜかクリア出来てしまったという、所謂共時性的奇跡(援助)の出現で、私たちは初めて神を信じ、自分の肉の目では見えない意思との共同創造を感じることが出来るからです。そのとき、洗心をサポートするのに必要な信仰心が育まれるのです。そういう経験が自分にはまだないという人は、すでに前生で経験済みかも知れません。
私たちは既に繋がっている
私たちは既に魂と繋がっているのです。これについては今年の本誌6月号の拙稿(悟り)で既に書いたことがあり、それと同じことですので、ここでは省きます。真に悟った人とは魂と常に繋がって生きている人です。
その時間の長さの差の問題です。いつでもブレないで魂と繋がっている人もいれば、いつでもブレないでエゴと繋がっている人がいます。
例外のような人も時々いますが、自分探しの初期段階は誰もが終了していると言って良いのです。ただ心にエゴがあると魂と繋がっていてもすぐにマインドのエゴが出てきてその通信を遮断してしまうだけのことです。
魂と繋がるのに絶対に必要なこと、それはエゴである御法度の超越であり、それが“洗心”なのです。遮断ではなくて超越であるところが味噌です。遮断は同次元において分断することで、御法度とは隣り合わせです。自分の意識の住む世界を変えること、エゴの次元を超越することが重要です。
逃げると問題が追いかけて来る
アメリカドラマ「将軍SHOGUN」でゴールデングローブ・主演女優賞を獲得し、一時は国際女優と騒がれたこともある島田陽子さん(現在64歳)は、その後いろいろと苦労されたようです。
若いころロック歌手の内田裕也氏との不倫関係にあって、そのことが週刊誌で暴かれて騒動になった後、一度内田氏と別れたのですが、内田氏が京都市長に立候補したとき、選挙費用を出したのが島田さんです。内田氏が市長選に落選し島田さんは2億3千万の莫大な借金を背負い、苦しみました。その後もお母さんが二度脳梗塞になって軽井沢で療養し、介護生活をしていました。お金に追われて大変に苦しんだようです。近年は三つ年下のご主人と結婚して女優業などをしながら穏やかに生活しているようですが、嘗ては地獄のような生活を味わった経験から述べる島田さんの言葉がしみじみと心に伝わります。
「逃げれば逃げるほど問題は追いかけてくる」
「自分から追いかけるほうがいいんです」
「そうすると問題のほうが逃げて行くんです」
これは「もう問題(宿題)は必要ない」ということです。問題が逃げていくのではなく、必要がなくなって現れなくなっていくのです。
拙書「真実の扉」(178ページ)にも書きましたが、二十数年前に私は30代後半に長いこと背中の痛みに苦しみました。痛みだけではなくて強い寒気が背中を襲い更に痛みが増幅します。妻に頼んで全ての下着の内側に保温のためにタオルを縫い付けてもらいました。電車の中でも立っているのが苦痛なくらい痛んだこともあります。
原因は私が神様をサポートしていなかったからでした。それに氣づいて前に向かって進みだすと、背中の痛みは徐々に消えていきました。
まず氣づくこと、次に氣づきに沿って行動することです。
目標について
「目標」という言葉はよく使われ、大抵の人は目標を持って生きるのは当然で、それを達成することが成功である、と思っています。
「私の生き方は目標を持たない生き方です」などと言ったら、市井の100人中100人はチンプンカンプンでしょう。
私は今、正しく目標のない生き方にコミットしたので、このエネルギーがどうも馴染めません。私のサラリーマン時代に三十数年間ずっと目標に追われて、それを達成することに努力してきたので、もう目標達成はうんざりです。
それで定年退職して一人で自営業を開業してからは、そんな生き方から解放されて自由に生きていました。初めから好調に推移して、一時は谷もありましたが、また持ち直してきたとき、余計なことを考え始めた。そこでちょっと欲が出たんですね。大きな失敗が重なりました。
いま考えてみると、魂と繋がって純粋に生きていると物事は波があっても概ね好調でしたが、ちょっと欲が出ると途端にどん底に落ちてしまいます。理屈で分かっていて、ここで偉そうなことを書いていても、やはり自分で体験しないと身に染みないものです。
どちらも生き方の問題
目標を掲げて生きていて成功する人がいます。目標を掲げないと成功しない人なのかも知れません。
現代人の多くの人はそんな分類に入ると思います。その方が成功しやすいのです。ですからそれはそれで良いのです。目標を立てて、一日一日を一所懸命に生きた方が、邪と繋がらないからです。まったく繋がらないわけではありませんが、純粋に一途になると邪が入りにくくなります。
もっとも邪と一緒に一途になったら大変なことになります。オウム真理教の麻原彰晃のように。
だから安易には勧めません。その人の精神状態、その人の洗心度によって生き方が決まると思います。ですから、私は目標に向かうことがいけないと言っているのではありません。人それぞれの生き方の問題です。
目標を掲げない生き方には心を洗った「洗心」という状態が必須なのです。
目標を掲げないで生きるということは、出来るだけ心を純粋にして空けておくことでもあり、魂か邪か、どちらかと繋がりやすくなるようです。瞑想で精神がおかしくなる人がたまにいるようですが、これは邪と繋がってしまった人ということになるでしょう。
目標を持たずに正しく生きて成功する生き方はとても高度な生き方です。何故ならば魂と常に繋がって生きる生き方だからです。そして常に魂と繋がって生きられる人はかなり洗心が進んだ人だからです。
時に魂と繋がるが、殆どの時間はマインドと繋がっているという人は目標を立てて進んだ方が良いと思います。その方が失敗の可能性が少ないからです。
一所懸命
一所懸命という言葉から一生懸命という言葉ができ、一生懸命が普通になりました。
中世の頃、先祖の土地の所領を命がけで守ることから一所懸命が生まれました。そしてそれが土地だけでなく人生の要所要所の生き方に使われ出し、一生懸命が普通になりました。
しかし魂と繋がって今を生きる人の生き方は、明らかに一所懸命です。一所懸命は魂の生き方です。
私は マインド には終極の目標はないと思っています。マインドは生まれ変わりを知りませんので、生き通しの魂の成長を考えた計画など知りません。目標や計画を持つのは生まれ変わっている生き通しの魂で、魂は一生懸命にその道を進もうとします。私たちは、心を魂と繋げて魂の意図を汲み、その思いに沿って一所懸命に行動することが良いと思います。
目標とは制限
目標(進化成長の計画)を持っているのは生き通しの魂です。マインドの目標は或る意味で執着です。目標自体が制限です。ちょっと大げさと思われるかもしれませんが、目標を作った時点で制限と執着が出来ます。目標達成したらそれで終わりです。本当の自由には制限がありません。人間がなぜ目標を立てて、その手順を計画するかというと、事前に、冷静に、そのような道を敷いて制限しておかないと、間違った道に進んでしまうからです。
いずれにしろ、私たちの意識の進化が進んでいくと、それが不必要になります。最後には、魂がしようとしていることとの共鳴が大事です。洗心によってその波動と共鳴して、魂の想いを受け取り、魂と繋がって生きていくことが大切です。
魂よりマインド意識が強いと、目標を持たずに生きることは失敗につながる可能性が高くなるでしょう。それでも、自分は洗心途中だけれども目標を持たずに自由に生きたいという人には、そのように生きることをお勧めします。失敗したときの反省の仕方が全く異なると思えるからです。
目標を持たないと言ってもまったく持たないのではなくて、思考も使いつつ大体の方向性は持った方が良いと思いますし、もちろん計画の青写真は必要ですし、夢も持ちたいものです。しかし目標は強固である程に固定観念を生み行動に制限がかかり自由性を失います。目標は強く細かいほどに、失敗したとき計画性の甘さという思考の間違いを反省することになります。心の反省をするのではなくて、思考を使った計画と、その実行の仕方を反省します。
強く細かな目標を立てないで在るが侭を生きようとして失敗したとき、それは魂と繋がれなかった洗心の甘さを見直すこととなります。ただただ心が洗われていないということを反省することになります。
その方が進化は格段と早まるでしょう。
ぼうっとしていることはマインドと繋がらないでいられるので大切です。魂と繋がるのもそんな時です。
でも、目標を持たないということはずっとぼうっとしていることではありません。魂と繋がったら、エネルギッシュに無我夢中で動かねばなりません。魂のやりたいことをしていくのです。
洗心こそが、真の自由人を確立させてくれるのです。