(「宇宙の理」2018年9月号より)
昼下がりのコーヒーブレイク 無垢毒1より続く
無功徳
善も悪もない
この世には本来、善も悪もありません。あるのは経験だけ、学びだけです。
幸せしか存在していなかったら、幸せとは何かが判らないのです。
幸せではない状態の経験があって、人は幸せを知るのです。
その元を作っているのが、いわゆる「悪」と呼ばれているものであったりするのです。
人が本当に心から喜ぶ顔を見せるのは、美味しいものを食べたり、好きな旅行に行ったりした時よりも、窮地(きゅうち)から脱したときの方がずっと喜びは大きいです。
「あゝ 救われた」「助かった」というときです。生きた心地ではなかった状態から脱出したとき、それが自分のピンチであっても愛する人の不幸であっても同じです。
社会には毎日愛のない事件が起きていますが、他人事(ひとごと)でなく愛のない事件を自分が経験することで自分は愛を理解します。社会に既に愛のない行動がなく、世の中が愛で溢れていたら、愛という概念は存在しません。
何でも同じですね。社会に愛のない行為がなくなることが許される日は、人々の心に愛だけが存在するまで成長した時です。ユートピアはそんな社会です。
不自由を経験して自由の素晴らしさに気づきます。
不自由が無かったら、そもそも自由という概念は存在しません。親に自由を縛られることから迫害に遭(あ)うまで、必要な経験です。
どのレベルの不自由を経験する必要がある魂なのか、ということで不幸のレベルが決まります。
「鳥啼山更幽(とりないてやまさらにしずかなり)」という禅語があります。
鳥の鳴き声があって初めて山が静かだったと気付くという意味です。
また「冷暖自知(れいだんじち)」「実参実究(じっさんじっきゅう)」との禅語もあります。冷たい暖かいは見ているだけでは分からない、実地に参って究明せよという意味です。
善は悪の経験があって体得できるのであって、悪も正しいことの場合が殆どなのです。
正しいこととは、意識の成長(愛)を育む運動です。
カルマも
カルマも同じです。精神世界の巷のヒーリングでは「このヒーリングでカルマを償還させます」などと言ったりすることがとても多いですが、これはあり得ない話です。宇宙の法則に反しています。
つづく